Lesson8-2 東洋貿易と「茶」の伝播

ヨーロッパの人々と東洋の「茶」の出会い

Lesson8からは、紅茶の歴史と文化の発展について学習して行きましょう。紅茶に対する豊富な楽しみ方のバリエーションと深い理解には、この歴史背景の理解を欠かすことができません。

茶の文化は元々東洋のものでした。その茶がヨーロッパの人々との出会いにより、様々な歴史のなかで大きく変化を遂げていきます。

 

東洋貿易と「茶」の伝播

シルクロードによる交易

ユーラシア大陸を横断し東洋と西洋とを結ぶ交易路シルクロードが、世界の歴史に与えた影響は少なくありません。世界遺産の一つ奈良の東大寺正倉院御物は、遠くギリシャやローマ、ペルシアといった「西」の文化が、海を隔てた極東の日本にももたらされていたことを示しています。

逆に、中国で改良が進んだ「紙」の技術は、イスラム世界を経てヨーロッパへ伝わり、やがてグーテンベルクの活版印刷技術を経て「記録媒体」「マスメディア」として世界に大きな影響を与えていきました。

ヨーロッパに定着しなかった「茶」

このように、世界の歴史を動かしてきた東西文物の交流のなかで、なぜかヨーロッパの人々の間に定着しなかったものがあります。それが「茶」です。

中国南部、雲南省のあたりが起源とされる「茶」は、紀元前から中国の人々の生活の中にあったと考えられています。これは紀元前180年頃に作られたとされる「馬王堆墳墓」の副葬品から「茶」を表すと考えられる「荼」の文字が発見されたことにより明らかとなりました。

少なくとも中国漢王朝の時代(紀元前206~紀元220)には既に喫茶の習慣があったものと考えられており、当然シルクロード交易でも取引されたと考えられますが、「紙」のように西へと広まっていくことはありませんでした。

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マルコ・ポーロと東方見聞録

「茶」がヨーロッパへ伝わる次のチャンスは、中国が「元」の時代にありました。

1271年、イタリア商人のマルコ・ポーロは、元の皇帝フビライ・ハーンへの使者として旅に出ます。それからおよそ4年近い歳月をかけて一行はフビライへの謁見を果たします。この時の旅の記録が『東方見聞録』です。

この中でマルコは日本を「黄金の国ジパング」とヨーロッパに紹介し、大航海時代への扉をたたくこととなりました。

記されることがなかった茶の習慣

この時代には「茶」は中央アジアの人々にも広まり、今日に続く伝統的な「茶」の飲み方が生みだされていました。同じ頃、日本では禅僧の栄西が『喫茶養生記』を著しており、日本にも茶を飲む喫茶の習慣が根付きつつありました。

元でも盛んに喫茶が行われていたと考えられており、マルコ・ポーロも「茶」を飲んだはずですが、東方見聞録には茶について何も書き残していません

こうして、ヨーロッパに「茶」がもたらされる16世紀を迎えることとなります。

 

ジパングからヨーロッパへの茶の伝播

1543年に種子島にポルトガル人が漂着した群雄割拠の戦国時代、このときに日本に鉄砲が伝わります。以降、スペイン、オランダ、イギリスと次々とヨーロッパの人々が「黄金の国ジパング」の富を求めて日本へやってきます。

日本は彼らを「南蛮人」と呼び、戦国大名はこれを保護して「南蛮貿易」による利益を得て勢力を伸ばそうとしました。南蛮人はさらに、キリスト教(カトリック)の布教を行うためにも来日、九州や畿内には宣教師らもやってきます。

手紙に記された”チアchia”

そのうちの一人、ルイス・デ・アルメイダという宣教師が、1565年イタリアの上司への手紙に「日本人は“チアchia”と呼ぶ口当たりの良い一種の薬用植物をきわめて好んでいる」と書き送りました。さらに、1595年にオランダ人海洋学者のヤン・ユイゲン・リンスホーテンは、ポルトガルの司祭の秘書としてインドのゴアに渡り、ポルトガル人の東洋における貿易の資料を集め、『ポルトガル人の東洋航海記』『旅行案内書 ポルトガル領東インド航海記』を著しました。これらの本の中には、日本の喫茶の風習についても詳しく記述があります。

彼らは、チャー(chaa)という一種の薬用植物の粉で、湯を入れたビンで夏冬に関係なく、これ以上の熱さでは飲めないというぎりぎりの熱さにしたものを飲む。紳士(上流階級)はそれを自分で作り、友人をもてなすときには、その熱い湯を飲ませる。それを入れるビンや薬用植物を保存する容器やそれを飲むための陶器のカップは、彼らによって非常に大切にされている。

春山行夫『春山行夫の博物誌Ⅶ 紅茶の文化史』平凡社 1993 p16

この記述が、当時人々の間に大流行し、大成されつつあった「茶道」のことを述べていることがわかります。

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本格的に茶が交易化した近代

オランダ船にてヨーロッパへ

その後の1600年にはイギリス東インド会社が、1602年にはオランダ東インド会社が成立し、17世紀はポルトガルに代わって、オランダとイギリスが東洋貿易の覇権を握る時代へと突入します。

そうした時代に、「茶」がいよいよヨーロッパに渡ります。公式の記録として残るものは、1610年にオランダ船が中国と日本で集めた「茶」を本国に伝えたのが始まりとされます。このようにして、「茶」はヨーロッパへの第一歩を踏み出したのです。

茶貿易の中心はオランダ

17世紀、東洋における「茶」貿易はオランダ東インド会社がリードします。

イギリスに「茶」が広まるのは、西洋諸国に喫茶文化が根付いた後ということになりました。江戸幕府の鎖国政策により平戸から撤退せざるを得ず、また香辛料の重要な拠点であったモルッカ諸島のアンボイナを失ったためです。

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17世紀後半になると、喫茶の風習はオランダ国内に広まります。裕福な階級の家では、「お茶の部屋」が作られ、市民階級とくに女性の間では市中のビアホールに集まってお茶のクラブを作るようになりました。初期のころは、中国の茶碗に似たカップで飲まれていましたが、やがてカップ&ソーサーで飲まれるようになります。

当時のティーマナー

茶を小さなカップに注ぐのは女性のホストの役目で、ゲストの好みでサフランや砂糖、ミルクを入れることもありました。ゲストは注いでもらった茶をソーサーに移し、ホストの女性に「茶」をほめ、香りをかぎながら「音を出してすする」のが、教養ある夫人のマナーとされました。

カップ&ソーサーと聞くと紅茶をイメージしますが、この時の「茶」は日本から伝播した緑茶です。日本人的な感覚では、緑茶に砂糖やミルクを混ぜたり、皿に移してすすって飲むのはとても奇天烈な習慣に見えますが、これが当時の欧米のスタンダードとして定着していくこととなりました。この習慣は欧米各地に20世紀まで残ることとなります。

社会問題にまでまった茶会

オランダのお茶会は社会問題となるほどに流行し、多くの家庭が家庭崩壊の危機に陥ったといわれています。主婦が家をあけてお茶会に出席、留守がちの細君に腹を立てた主人は酒場に入り浸り……という事態に発展したことも多かったようです。

流行が社会に影響をもたらすようになると、排斥しようとする運動も起き始めます。これがヨーロッパにおける最初の「茶論争」のきっかけともなりました。以後、「茶は体に良いか悪いか」から始まり、「ミルクが先か後か」に至るまで、さまざまな「茶(紅茶)論争」がヨーロッパで展開されることとなります。

 

「chaa」から「tea」へ

「茶」が「chaa」から「tea」に変化したのは、イギリスが東洋貿易の拠点の一つを中国の厦門(アモイ:福建省南部の都市)に移したころからとされてます。

現在、世界で「茶」を示す言葉は、陸路で伝播した「cha(チャ 広東語)」と、海路で伝播した「tay(テイ 福建語)」の二系統に分けることができます。「cha」は、陸路を経て北京、朝鮮半島、日本、モンゴル、チベット、ベンガル、インド、中近東から一部東欧、ポルトガル(澳門 マカオ:中国南部の特別行政区を直接統治していたため)で用いられています。