そして紅茶は21世紀へ
中世から近代までの世界の大きな出来事の影には、茶を巡る各国の思惑がありました。Lesson10では、より現代に近付く中で、茶を取り巻く世界の歴史と文化の変化を学習していきましょう。
アルコールよりお茶を
tee’totalの禁酒運動
19世紀半ば、イギリスでは「tee’total」と呼ばれる禁酒運動が始まります。これは、アルコールに依存していた労働者に対して、「茶」を進めることを目的とした運動です。
近代化と社会問題
世はヴィクトリア女王の治世であり、大英帝国が華やかな繁栄を謳歌している時代ではありましたが、一方で産業革命の進行による貧困と格差、そして工業化による都市への人口集中、それらに伴う都市環境の悪化が、社会問題となっていた時代でもありました。劣悪な労働環境のもと、大人はもちろんのこと、時には貧しさから幼い子供まで働かなければならない家庭もありました。そしてストレスのはけ口を求めて、男女を問わず人々はお酒を求めていました。
男性は仕事帰りにパブに入り浸り、女性の中にはむずかる子供にジンを与えて眠らせるなどいった虐待を行うケースもあったようです。このようなアルコールの過剰摂取による弊害が社会問題と認識され、イギリス議会は、飲酒は労働者階級の犯罪や窮乏の主要因であると位置づけます。そこで、始まったのが「禁酒運動」です。
「tee’」は、「絶対に」という強調を示す言葉ですが、発音が「茶」の「tea」に似ています。そこで、「絶対に」の「tee’」に「茶」の「tea」をかけて、「アルコールの代わりに、お茶を」がスローガンとなったのです。
禁酒協会の設立とティーパーティー
1830年に「禁酒協会」が設立され、その主催で1833年のクリスマスにプレストンで行われたティーパーティーは、1200人もの人が参加する大規模な集会となります。さらに、1839年には16歳以下の子供にビール以外のアルコールを禁じる法律が成立、パブの営業時間にも規制がかかりました。
続いて、この目標を達成させるために禁酒協会は、理想とされる家庭像を労働者階級に意識させるために、王室をモデルとします。ヴィクトリア女王夫妻は恋愛結婚で結ばれており、女王が公務を行いながらもたくさんの子どもたちを出産し育児を行っていたこと、一家の肖像画が公開されて「幸せな家庭」のイメージが定着していたことから、女王に後援会長を依頼しました。
さらに、作業効率を上げるために休憩時間には、無料のお茶を準備する雇用主も現れます。禁酒運動は、「禁酒」を目的としている人ならば誰でもが仲間になれるというオープンな運動だったことも効を奏しました。
禁酒運動の広がりと影響
このように禁酒運動は全国規模で展開され、さまざまな社会事象に影響を与えていきました。
まず、労働者の労働環境の向上に国が取り組むようになりました。児童の酷使や長時間労働の規制、最低賃金の値上げ、食品の物価を抑制するなど、労働者保護の政策が打ち出され、失業率も減少していきました。
また男性の雇用が安定したことによって、子育て期間中の女性が外で働かなくても良い環境が整ってきました。さらに政府は、公園、図書館、博物館といった公共の娯楽施設の設置を進め、経済的負担が少なくても楽しめる休日の娯楽施設の充実を図ります。
ロンドンでの万国博覧会
そして1851年、労働者たちも熱狂した世界初の万国博覧会がロンドンで開かれます。そもそもの目的は、イギリスの進んだ工業力や技術力を海外に誇示するためのものでしたが、国民にとっては娯楽の一大イベントとなりました。
5か月の開催期間中に来場した人の数は600万人と言われます。入場料が抑えられ、気軽に訪れることができたことも多くの来場者が詰めかけた要因の一つでした。もちろん、会場でふるまわれたのはアルコールではなく紅茶です。
この時の展示物は、ほとんどがイギリス政府に寄贈され、政府は万博の収益金を利用して「産業博物館」を設置し、それを展示します。これは、現在の「ヴィクトリア&アルバートミュージアム」に引き継がれており、当時会場で非常に人気のあったウェジウッド窯等の名品なども見ることができます。
公共娯楽施設の整備とアルコール依存からの脱却
「産業博物館」は入場無料で、さらに特定の日には夜まで開館することで仕事帰りの労働者を受け入れました。万博の収益によって、政府はさらに科学館や自然史博物館などたくさんの公共施設を整備します。
こうして休日の人々の娯楽は充実し、アルコール以外にも楽しめるものができたことで、アルコールに依存するという習慣も次第に少なくなっていきました。子どもたちにアルコールを与えてはいけないという法律がようやく成立し、子どもの健全な生活基盤が確保されるようになったのもこの時代であり、これは禁酒運動の成果の一つといえるでしょう。
