アフタヌーンティーの始まり
1840年ごろのこと、イギリスの名家、ウーバンアビーのベッドフォード公爵夫人アンナ・マリアは、夕方になるとお茶とともにバターつきパンを食べることを日課としていました。この頃になると、人々の生活スタイルに変化が起き、ランプなどの普及によって仕事時間が延長されたり、夜の社交が多くなったりしてきます。
すると昼食と夕食の間の時間が長くなり、その間のちょうど夕方頃に空腹を覚える人が多くなっていました。アンナ・マリアもその一人で、その空腹を紛らわせるために間食をする習慣がついたのです。
公爵夫妻の屋敷には常にゲストが多く、夫妻はその接待に追われていました。公爵が男性客らと狩りを楽しみ外へ出る間、マリアは午後4~5時頃になると、女性のゲストを応接室(ドローイングルームDrawing room)に招き、お茶やお菓子でもてなすようになりました。
これが、イギリスを代表する文化の一つ「アフタヌーンティー」の始まりです。マリアのこの午後のお茶会が話題となり、以後上流階級の女性たちの娯楽の一つとして流行していきます。
王室にも定着したアフタヌーンティー
マリアはもともとヴィクトリア女王に仕えており、女王もマリアを慕っていたという間柄でした。1841年、女王は夫のアルバート公とともに、マリアのもとを訪れ彼女からアフタヌーンティーの接待を受けます。
これをきっかけとして王室にもアフタヌーンティーの習慣が定着し、王室主催のアフタヌーンティーも催されるまでになりました。
こうなるとだれもがマリアの主催するアフタヌーンティーに憧れ、招かれたいと思うようになります。1859年には1年で1万2000人もの人が招待されたという逸話も残っているほどですから、その人気ぶりはかなりのものでした。
こうしてアフタヌーンティーは、上流階級の人々の間に浸透していきました。
文化として定着するアフタヌーンティー
中流階級への広がり
このような上流階級のアフタヌーンティー文化が、中産階級の女性たちの憧れとなったことは言うまでもありません。
上流階級の女性たちが行っていたアフタヌーンティーには、さまざまなマナーがありました。洗練された身のこなしや作法、室内装飾や使用する茶器のセンス、知的な会話そして豪華なティーフードなど、話には聞くものの、産業革命によって俄かに成り上がった中産階級の人々には、何をどのようにしてよいのかよくわかりません。
婦人教養の教科書の誕生
そうした中産階級の女性たちの間で、大ベストセラーになったのが、イザベラ・メアリ・ビートンの『ビートン夫人の家政読本(The Book of Household Management)』です。
イザベラ自身も中産階級の出で、当時の女性としては最高の教養を身につけてはいたものの、新婚当初は一家の女夫人としてどのようにふるまえばよいのかわからず、悩んだという経験を持っていました。
イザベラの夫のサミュエル・ビートンの会社は『イギリス婦人家庭雑誌』という雑誌を出版していましたが、彼女はその豊かな教養を活かして、編集の作業を手伝っていました。そこで、自分と同じような悩みをもつ読者は多いはずと考え、1861年に本を出版します。
初版で6万部、その後10年間に200万部を売り上げる大ベストセラーになったこの本で、特筆すべき内容の一つに、掲載されているレシピが大変充実していることがあげられます。レシピそのものは、彼女のオリジナルではありませんが、彼女自身が料理が得意でなかったことから、初心者にもわかりやすいように、人数やシーン別のパターン、素材の分量の明記といった工夫が盛り込まれていたため、若い女性の支持を集めました。
また、アフタヌーンティーの作法はもちろんのこと、茶道具を含む調理器具の選び方、メイドの採用のポイントとその育成法、接客の方法、社交上の注意点、紅茶のいれ方に至るまで、細かくかつ分かりやすく記載されており、当時の新米主婦には心強いマニュアルとなったのです。
茶会形式の変化
家庭招待会
こうして中産階級の人々にもアフタヌーンティーが定着していきましたが、19世紀後半になるとその形に少し変化が生じます。
上流階級の人々のアフタヌーンティーを少し簡略化した形式の茶会、「家庭招待会」が、気軽な社交の場として行われるようになっていきます。これは、招待者側が事前に在宅の時間を知らせておき、ゲストはその時間の適当なときに尋ねるという形式のものでした。
多くの場合毎週決まった曜日の午後に催すことが多く、この日だけは事前の約束がなくても訪問してよいこととなっていました。滞在時間は約15~20分で、ちょっと顔を出したといった程度です。友人を紹介したり、ディナーや正式のアフタヌーンティーの約束をしたり、情報交換したりと、短い時間で行われたことが特徴で、1日に何軒か梯子をする女性も多かったといいます。
ナーサリーティーと茶会マナーの修得
やがて成人するまでの間に、こうしたもてなしをできるようになることが中産階級の子どもたちの課題となりました。子育ては「ナニー」という雇われ乳母が中心となり、専用の子供部屋「ナーサリールーム」で行われます。子どもたちは散歩の時間以外、ナーサリールームでナニーと一緒に過ごし、ナーサリールームでのティータイムは「ナーサリーティー」と呼ばれ、子どもたちはこれを通して茶会のマナーを身につけました。
子どもの場合、大人の時間にあわせて夕食をとると、かなり遅い時間になってしまうため、ナーサリーティーは子どもたちの夕食となることもありました。そのため紅茶にたっぷりのミルク、ビーフティー(コンソメスープ)、サンドウィッチ、ビスケットやカップケーキなどの甘いものといった高カロリーなものが用意されました。
子どもたちはナーサリーティーを通して、ティーセットの揃え方、ナプキンの折り方、テーブルセッティングの仕方、ゲストの選び方、アクシデントへの対応、第一印象の大切さなど、かなり高度なことを学ばなければなりませんでした。実践編として子ども同士のお茶会も開かれ、そのマニュアル本なども流行しました。
ピクニックの流行
当時流行したことに「ピクニック」があります。19世紀初頭に上流階級の人々の間に流行が始まり、19世紀後半には中産階級の人々にも浸透しました。
上流階級の人々のピクニックは自分の領地内で行われ、中には領内の階級の違う人々を招いて行う領主もいたようです。中産階級のピクニックは、郊外の自然豊かな場所に出かけて行うことが主流でした。これには鉄道の普及や公園の整備が整ったことが要因として挙げられます。
さらに自転車が流行するようになると、サイクリングも流行しました。19世紀末には、競馬やポロなどの観戦の際にもピクニックが行われるようになります。
世界史に残る大きな変化が起こった19世紀
19世紀は国外ではアヘン戦争などが勃発し、日本も開国に揺れた世界史に激震が走る時代でした。しかし、「紅茶」が誕生したことにり、イギリス国内ではさらにその需要が高まり、上流階級を中心として華やかで豊かな文化が花開いていた時代でもあったのです。

