ティークリッパー
「クリッパーClipper」とは、「軽快に走る」という意味を持ち、当時茶を運ぶために早く軽快に船を走らせた人々は「ティークリッパー」と呼ばれました。彼らの存在は、当時のイギリス文化に大きな影響を与えました。
アメリカンクリッパーの時代へ
100日でロンドンに到着した紅茶
1849年、イギリスで「航海条例」が廃止されます。「イングランドの貿易はイングランドの船に限る」としたこの法律が廃止されたことによって、イギリスにはさまざまな国の船が入港することができるようになりました。
翌年の1850年12月、アメリカのクリッパー「オリエンタル号」は、香港で1500tの茶葉を摘みこみわずか97日という驚異的なスピードでロンドンに到着し人々を驚かせました。当時、中国で生産された新茶がイギリス人のティーカップに届くまでには、1年半近い時間を要していました。
イギリス東インド会社の輸送日数の約半分でイギリスにもたらされた「茶」は、当然鮮度も違います。この時の茶にはイギリス船が運ぶ茶の2倍の値がついたといわれます。以降「茶」には、「新鮮さ」という付加価値がつくこととなります。
ティー・クリッパーの価値の高まり
「クリッパーClipper」とは、「軽快に走る」という意味を持っています。アメリカ近海は密輸船や海賊船の思うがままに徘徊する海であり、取締から逃れるためにも彼らの船足には「軽快さ」が求められたわけです。それが改良されて「快速の船」が誕生しました。
クリッパーが運んだお茶がこれまでの2倍の値が付いたとなると、英国の茶商は愛国心よりも儲けのためにアメリカのクリッパーとの契約を始めます。もちろん、これはイギリスの造船業界を慌てさせ、イギリス人はこれに対抗できる船の建造に取り掛かります。
ティークリッパーレース
1850年代も後半に入ると、クリッパーによる「茶」の運搬は、単なる運搬だけではなくイギリス人の好む「レース」という娯楽に発展していきます。新茶を最初に運んできたクリッパーの荷には、高値が付けられ、船長と船主には莫大な利益だけではなく名誉も与えられることとなりました。さらに、懸賞金や報奨金なども出るようになると、クルーのモチベーションもアップし、速さだけではなく、輸送の質も向上しました。
「賭け勝負」好きのイギリス人ですから、こんな面白いレースを放っておくはずはなく、「どの船が、一番に入港するか」というティークリッパーレースは次第に白熱していきます。誰にでも参加できたこの勝負に人々は熱狂しました。海事新聞などでクリッパーの動向を確認したり、レースの勝敗を見届けるためにテムズ川沿いのパブに集まって入港を待ったりと、人々はダービーを楽しむように、クリッパーレースも楽しんだのです。
中国で「茶」が出荷されるのは4月と6月で、「茶」の名産地である福州の港からは最もたくさんの船が出航しました。コースは、喜望峰を回って大西洋に入り、セント・ヘレナ島、アゾレス諸島を経て英仏海峡に向かうものです。陸上からその姿が確認されると、ロンドンへ電報が打たれました。
数か月に及ぶレースは、数々の伝説を生みだします。なかでも、1866年5月のレースは、「グレート・ティー・レース」として有名です。
グレート・ティー・レース
参加したクリッパーは11隻あり、その中で優勝候補と目されていたのは、「エアリアル(空気の精霊)号」と、「テーピン(太平)号」、その姉妹船の「セリカ(絹)号」の3隻でした。嵐のインド洋を抜けて喜望峰を同日に通過した船が4隻。もちろん、優勝候補が含まれていました。
やがてアゾレス諸島を優勝候補3隻が通過したものの、英仏海峡に入りセリカ号が脱落、エアリアル号とテーピン号が並走という緊迫した状況が、人々を大いに盛り上げます。
テムズ河口の港に、最初に姿を現すのはどの船か。
9月6日の朝、港に押しかけてその姿を待つ人々の前に現れたのはエアリアル号。しかし、その背後にはテーピン号の姿が!その差、わずかに10分。
ティークリッパーレースは、先に船がドックに入った時点で勝者が決まりますが、風のない河川を帆船は自力走行できません。そこで、河口からタグボートにドックまで引っ張ってもらう必要がありました。
テムズ河口の港に一番乗りしたエアリアル号でしたが、このタグボートとの接続に手間取ります。後ろからはテーピン号が迫っていました。観客がかたずをのんで見守る中、テーピン号もタグボートとの連結に入ります。しかし、エアリアル号はまだもたついています。
先にタグボートとの連結が完了したのは、テーピン号。あっという間にエアリアル号を追い越し、見事ゴール!
このわずかな差のレースに、観衆は大歓声。テーピン号には賞金が払われましたが、彼らは両者ともに互角であったということで、賞金を折半することを提案します。2隻の船のスポーツマンシップは、美談としてイギリス中に広まりました。
蒸気船の開発とクリッパーの衰退
しかし、これほどまでに時代にもてはやされたクリッパーはまもなく姿を消します。1869年、スエズ運河が開通して、さらに蒸気船が開発されると、クリッパーはお役御免となりティー・レースは幕を閉じました。
盛者必衰の理のとおり、花形クリッパーの中には哀れな末路をたどったものが少なくありませんでした。エアリアル号は、ロンドンからシドニーへ向かう途中で行方不明となり、テーピン号は、アモイからニューヨークに向かう途中で沈没、セリカ号も難破という最期でした。
現在、唯一残っているクリッパーは「カティーサーク号」です。最新鋭としてデビューしたにもかかわらず、目覚ましい活躍もなく終わった船ですが、貴重な文化財として現在はグリニッジに保管されています。

