1796年、オランダとの戦いに勝利したイギリスは、セイロン(現スリランカ)を獲得します。当時、セイロンにはコーヒーのプランテーションが広がっており、もともと人口の少ない地域だったため、インド南部のタミル人などが労働者として移住させられていました。
セイロンでの茶栽培の始まり
順調に発展をつづけ、リトルロンドンと呼ばれるほどの美しい街並みを各地に形づくっていたセイロンですが、1860年ごろに転換期を迎えます。きっかけは、コーヒーが病害によって壊滅的なダメージを受けたことでした。
これはセイロンの経済を破綻させ、多くの農場主が倒産します。残った農園主らが巻き返しを図って栽培を始めたのが、マラリアに薬効があるといわれたキナノキという植物です。しかし、供給過剰に陥り価格が下落。農場主たちが次に取り組んだのがアッサム種の「茶」の栽培でした。
セイロンティーとジェームズ・テーラーの功績
セイロンで初めて紅茶の生産に成功したのが、ジェームズ・テーラーというスコットランド人でした。彼は農場の人たちとともに困難を克服しアッサム種の栽培に成功、さらに独自の揉捻機を開発します。1873年にセイロンで生産された紅茶は、ロンドンで高く評価されました。
テーラーはその後も現地で、人々とともに「茶」の栽培と紅茶の生産に尽力し、57歳で亡くなるまで独身で仕事一筋の人生を送ります。紅茶の生産に関わってから、休暇を取ったのはたった一度だけ。それも、ダージリンへの研修に行くための2週間でした。テーラーは亡くなる前日まで、茶園で仕事を続けていたといいます。
彼は、今も彼が愛したスリランカのルーラコランデに眠っており、彼の残した茶園は、人々に受け継がれ現在でも紅茶の生産を続けています。
新しい販売方法
ブルックボンド社の新しい取り組み
19世紀の後半は、紅茶を販売する業者にも変革の多い時代となりました。
まず1869年創業のブルックボンド社が、当時は珍しかった現金のみでの売買を開始、さらにまだ一般的ではなかったブレンドティーの販売、あらかじめ定量を包装したパッケージティーの販売などに取り組んだのです。
こうして味に偏りが生じてしまう農産物の「茶」を専門家がブレンドすることにより、一定の品質を確保し、価格を均一に調整することが可能となりました。これによりレストランやホテルなどに、確かな品質の紅茶を安定的に供給することができるようになったのです。あらかじめ定量を包装してある紅茶は在庫の管理がしやすく、また人手もかからなかったので、少人数の販売員でも対応することができました。
ただし、この販売手法には賛否両論あり、中には「手抜きではないか」「本当に定量入っているのか」といった疑問が出るなど、懐疑的に見る人もありました。そこで、ブルックボンド社では、店内に客が自由に計量できる天秤を設置、不正がないことを証明します。
この天秤は、のちにブルックボンド社のロゴにも採用されることとなります。
リプトン社のユニークな販売方法
1871年創業のリプトン社もユニークな販売方法で知られています。リプトン社は、1890年からセイロンの茶園を直接経営し、「茶園からティーポットへ」のスローガンのもとで、仲介業者を通さない産地直送の紅茶販売を開始します。
リプトン社は、現地でブレンドと個包装を行い輸出しました。現地の安い人件費を利用することによって、大幅なコストダウンに成功したのです。しかしそれが逆にあだとなってしまい、「リプトンの紅茶はまずいから安い」という誹謗を受けてしまいます。
ティーオークションへの出品と名誉挽回
そこでリプトン社は茶葉の品質を証明するために、ロンドンのティーオークションに出品します。ダンバテン茶園で作られたリプトン社の紅茶は、このとき史上最高の高値で落札されました。ダンバテン茶園が、リプトン社の経営する茶園であることを知った人々の驚きは大きく、以後「安くておいしい紅茶」としての評価が定着したのです。
ロープウェイの敷設や地域に合わせたブレンド
リプトン社の経営は、ほかにも有名な逸話が残ります。足場の悪い急な斜面に作られることが多かった茶畑では、事故も多発していました。そこで、リプトン社は山頂から工場までの間にロープウエイを敷設、安全に早く生葉を運ぶ方法を確立します。これは、後にほかの茶園にも広まっていきました。
さらに、各地に支店をもっていたリプトン社は、土地の水質が紅茶の香りや味を左右するということに早くから気づき、それぞれの地域(支店)に合わせたブレンドを研究しました。この姿勢も他の紅茶会社に広まり、以降、紅茶のブレンドに水質を考えあわせることが定着します。
このように茶商たちの経営や販売方法の工夫や転換が、イギリスの紅茶の消費に更なる拍車をかけていくこととなるのです。
ハイティーの広まり
19世紀の後半、スコットランドや北イングランドの地域の労働者階級に「ハイティー」とよばれる習慣が広まりました。労働者たちは帰宅すると、ダイニングキッチンで軽い夕食としてたっぷりの紅茶とパンをとるようになります。
「ハイティー」の名前の由来には、ハイバックチェア(高い背もたれのあるイス)に座ったから、ダイニングテーブルが高かったから、ティーフードがハイカロリーだったからなどと諸説があり、定かではありません。労働者階級に広まったこの習慣は、中産階級でも日曜日の夕食として取り入れられていきました。
すでに学習した『ビートン夫人の家政読本』にもハイティーに関する記載があり、「ハイティーでは、肉が重要な役割を担う。ティーディナーとして地位づけるべきである」などいった記載が見られます。
常に上流階級を追っていた中産階級の人々は、今度は逆に下位層である労働者階級の文化を取り入れ、ハイティーを豪華なものにしていきました。
