イギリスの激動の時代を経て、茶は宮廷文化へと発展していきます。イギリスにおける宮廷茶文化の発展には、2人の女性の存在があります。
海外進出の拠点を得たイギリス
ポルトガル王妃キャサリンの存在
1660年、チャールズⅡ世が亡命先のフランスから帰国して即位し、イギリスでは王政が復活しました。その妃となったのがポルトガル王女のキャサリン・オブ・ブラガンザです。
同盟関係を強化するための政略結婚で、この結婚によりイギリスはポルトガルから、インドのボンベイ(現:ムンバイ)、北アフリカのタンジールを譲渡、ブラジル、西インド諸島への自由貿易権を得ます。オランダに後れを取っていたイギリスは、これにより海外進出の拠点を得ることとなります。
茶文化が宮廷に広まる
キャサリンは輿入れに際して、船舶3隻分の船底を埋める「茶」、砂糖、スパイスを持ってきました。そして与えられた私邸サマセットハウスや公邸のウィンザー城の室内に、東洋から輸入した茶箪笥を並べて、日本や中国の磁器を飾りました。
そうしたエキゾチックな魅力にあふれた部屋で、彼女はたびたび茶会を催します。後に「ザ・ファースト・ティー・ドリンキング・クィーン The first tea drinking queen」と呼ばれるようになる王妃が愛用していたのは、当時東洋でしか作ることの出来なかった磁器のティーボウルでした。透けるような繊細さを持ちながら、耐久性があり、抜けるような白地に青の絵付けが施された器は、たちまち人々の心を惹きつけ、上流階級の人々の間に広まります。
王妃はまた、「茶」を飲む前に「バターつきのパン(bread and butter)」を食べるという習慣も広めました。これは後にアフタヌーンティーのマナーの一つとなっていきます。
王妃は、「茶」と共に当時同じように高級品であった砂糖とサフランとをたっぷりと入れて客人に振舞いました。こうして、贅沢な嗜好品としての「茶」の文化が宮廷に広がっていきます。その希少性のゆえ嗜好品というよりも「薬」としての扱いではありましたが、喫茶の習慣は、やがて上流階級の人々の間にも浸透していくこととなります。
イギリス東インド会社の復活
キャサリンの輿入れにより、イギリス東インド会社はインド貿易の拠点を手にし、東南アジア経由で茶を輸入することができるようになりました。1664年、イギリス東インド会社の船は「緑茶」を王室に献上します。以降、「茶」は王室への献上品となります。
1669年、イギリスはオランダからの「茶」の輸入を禁じ、独自の買い付けでまかなう方針をとります。その10年後には、ロンドンにおいて東インド会社主催の初のティーオークションが開かれました。
オランダ式の茶文化をイギリスにもたらしたメアリ
さて、こうした華やかな喫茶文化を宮廷に根付かせたキャサリンですが、子宝には恵まれず、チャールズⅡ世の弟のジェームズⅡ世が、王位継承者となります。
ジェームズⅡ世には妻がありましたが、王女を二人生んでのちに他界しており、男児を得るために後妻を探していました。そこへ嫁いできたのがメアリ・オブ・モデナです。オランダの宮廷で花嫁修業をし、最先端の教養と流行、礼儀作法を身につけてきた彼女はこの時15歳、ジェームズⅡ世は40歳でした。
二人の新居はスコットランドの田舎町エディンバラで、華やかな宮廷文化など望むべくもない環境でしたが、彼女はその宮廷で「茶」をたしなむ習慣を伝えます。
最先端の宮廷喫茶作法
1685年にはチャールズⅡ世が逝去しジェームズⅡ世の治世となると、ロンドンの宮廷に移ったメアリは、最先端の宮廷喫茶の作法を広めました。
当時はキャサリンが広めたポルトガル式が宮廷喫茶の作法として広まっていましたが、メアリはオランダの宮廷で身につけた新しいマナーを紹介していきます。それが、薬缶で煮だした緑茶をティーボウルに移し、それをさらに「ソーサーに移して飲む」という作法でした。さらに、メアリは1680年代にフランスで流行したという「ミルクティー」も取り入れ、宮廷に広めます。
究極の贅沢品としての「茶」
濃く煮だした緑茶に、たっぷりのスパイスと砂糖、ミルクといった高価な品々をふんだんに入れた「茶」は、当時の究極の贅沢品でした。特に、「スプーンが立つほど濃いお茶」を頂くことが貴婦人の憧れであったといいます。溶けきれないほどの砂糖を入れたお茶を飲んで虫歯を作り、その虫歯の数を競ったという、現代の感覚で考えると呆れてしまうような逸話も残っています。
このように華やかな宮廷文化の中心にあったメアリですが、彼女は1688年の名誉革命により失脚、フランスに亡命する運命をたどります。
