中国では1644年に明が滅び、満州族の愛新覚羅氏が清王朝を開きました。
貿易限定の公布とイギリスへの影響
第6代乾隆帝は、1757年に外国との貿易は広州に限定する旨を布告します。これは広州での滞在期間は4ヶ月、居住地も制限され、取引先は政府が認めた商人に限るという内容でした。イギリス東インド会社にとっては、厳しい条件を突き付けられることとなります。
しかしすでに国民に広く浸透した「茶」を手に入れるためには、どんなに厳しい条件でも、イギリスは従わざるを得ませんでした。
対中貿易赤字の影響
さらに、当時の対中貿易においてイギリスは決済を銀で行っていました。イギリスが中国に輸出していたものは、毛織物や時計、インド産の綿花などで、茶や磁器に比べれば低額な商品です。
対中貿易は完全な赤字が続いたため、銀は中国へ流出、国内の銀不足はその高騰を招きました。こうした対中貿易赤字の拡大は、次第にイギリスの経済を混乱させ、財政を深刻な状況へと追い込むこととなります。
「茶税」とボストン茶会事件
18世紀になるとイギリスは、まさに「太陽の沈まぬ国」といわれる繁栄を謳歌するようになります。
アメリカに広がる喫茶の習慣
アメリカ大陸の一部は1664年に植民地となり、イギリスからの入植者が続々とアメリカへ渡っていきました。移民した人たちの多くは清教徒の中産階級の人々で、「イギリス本国の上流階級の人々の生活」を夢見て、アメリカへ渡ったのでした。こうした人々の間でも、高価な「茶」や磁器は成功を表す一つのステイタスシンボルでした。
1750年にはアメリカでもティーガーデンがオープンし、喫茶の習慣はアメリカでも盛んとなります。やがて、イギリスがアメリカへ輸出する「茶」から得られる利益は、イギリスにとってなくてはならないものとなっていきました。
財政の逼迫と砂糖法・印紙法
しかし18世紀の半ばになると、ヨーロッパでの戦争や北アメリカでのフランスとの植民地獲得戦争などによって戦費が増大、そこに中国との貿易赤字が加わり、財政が逼迫するという事態に陥ります。
そこで、この負債をイギリス政府はアメリカの植民地にも負担させることにします。1764年の砂糖法、1765年の印紙法というように課税の対象を広げ、アメリカ植民地から徹底的に徴収することにしたのです。
しかし、新聞やパンフレットといった印刷物はもちろんのこと、証書やトランプなどにいたるまで、日常生活に必要な紙類すべてに印紙を貼りつけることを義務付けた印紙法は、当然のことながら激しい抵抗に合います。
当時のアメリカの移民達にはそもそも参政権が認められておらず、本国の政策に対して意思表示をする機会がありませんでした。そこで、アメリカの人々はあの有名な「代表なくして課税なし」のスローガンのもと、団結して抗議活動を行いました。
砂糖法・印紙法の廃止とタウンゼント諸法の成立
こうした強い反発により砂糖法も印紙法も廃止されますが、イギリス政府は次の策として「タウンゼント諸法(1767)」を成立させます。これは、アメリカが輸入する「茶」、紙、塗料、ガラスなどといったアメリカでは生産されていない品々に関税をかけるものでした。しかもこれらの品々はイギリス以外からの輸入も認められていなかったため、アメリカは苦境に立ちます。
しかし、このタウンゼント諸法も不買運動などの激しい抵抗に合い、1770年撤廃せざるを得なくなります。しかし「茶」に対する関税だけは残る事となりました。
茶税と密輸
「茶」は相変わらず高価な贅沢品ではありましたが、すでにアメリカ社会でも必需品となっていました。これだけは税金が高くても購買力は落ちない、とイギリス政府は考えたのです。
しかし、アメリカの「茶税」は、イギリス本国からの圧政の象徴となりました。そしてイギリス本国でそうであったように、密輸が増大します。密輸の相手国は、フランス、オランダといったヨーロッパ諸国で、アメリカの人々は圧政の象徴であるイギリス東インド会社の「茶」ではなく、こうした密輸される「茶」を愛飲したのです。
不買運動による東インド会社の経営危機
こうした不買運動が功を奏し、イギリス東インド会社は大量の「茶」の在庫を抱えてしまい、経営危機に陥ります。これは、イギリス政府にとっても予想外のことでした。
そこで、今度は1773年に新しく「茶法」を制定します。
茶法の制定とボストン港でのティーパーティー
「茶法」は、在庫が消化されるまでの間に限り、イギリス東インド会社は関税なしにアメリカ植民地で「茶」を販売できるというものです。こうなれば、密輸される「茶」よりも安くなり、アメリカの人々も納得するだろうと考えたのです。事態を収拾するためにとったイギリス政府の苦肉の策でした。
ところが、アメリカの人々のイギリス本国に対する不信感は、すでに抑えようのないところまで来ていました。「茶」を飲むことの便宜よりも、「自分たちには、本国の政治に関与する術がない」ことがそもそもの問題であると、抵抗活動の目的が変化していたのです。
アメリカの港での激しい抵抗
1773年12月の「茶法」成立後、初めてイギリスの東インド会社の船が「茶」を積んでアメリカの4つの港に入港します。しかし、いずれの港でもイギリス政府への抗議行動が激しく、「茶」は荷揚げされなかったり、倉庫に保管されたまま販売ができない状況に陥ったりしました。
その中の1つボストン港には3隻の船が入港していましたが、同様に荷揚げできずに停泊していました。船長は人々の激しい剣幕に恐れをなし、イギリスに引き返そうとしましたが、イギリス政府から派遣されている港湾当局の役人が許可するはずはなく、港で立ち往生してしまいます。
ボストン茶会事件
12月16日夜、夜陰に紛れた「自由の息子たち」と称する50人程度の集団が3派に分かれて、これら3隻を襲撃、船に積まれていた342箱の茶箱を斧で破壊し、中の茶を海に投げ捨てます。これが、世にいう「ボストン茶会事件(ボストンティーパーティ事件)」です。
ちなみに、英語では「Boston Tea Party」です。英語の「party」には「政党」という意味があります。そこで和訳をする際に「ボストン茶党事件」とする案があったそうですが、「party」が特定の政治集団等をさすものではないことから、「茶会事件」で落ち着いたといわれます。また、この事件に関わった市民らが、「ボストン港をティーポットにしてやった」とか、「国王ジョージⅢ世に対するティーパーティ(茶会)を開いた」といったジョークを言ったことから「茶会事件」となったという説もあります。
なお、こうした過激な行動に対しては、アメリカ植民地内でも賛否は分かれました。中には私財をもってこの投棄された「茶」の賠償を試みようとした人もあります。
