Lesson9-4 アメリカ独立戦争と清との貿易摩擦

アメリカ独立戦争へ

ボストン茶会事件に対してイギリス政府は非を認めず、軍事力をもって制圧しようとします。1774年には、ボストン港の閉鎖・マサチューセッツの自治の剥奪・兵士宿営のための民家の徴発といった「抑圧的諸法」を出して、ボストンを軍事的に制圧します。

これに腹を立てたアメリカ植民地側は、フィラデルフィアに12の植民地代表を集めて第一回大陸会議を開催し、イギリス本国議会の植民地に対する立法権を否認、経済的断交を決議します。そして翌1775年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードにおいて、ついにイギリス軍と植民地の民兵が衝突(レキシントン・コンコードの戦い)、ここに「アメリカ独立戦争」の火ぶたが切って落とされました。

かつて、イギリス本国の上流階級の人々と同じ生活を夢見て海を渡った人々は、その夢の象徴であった「茶」によって、独立への道を進んでいくこととなります。

「茶を飲まない国」への歩みと独立宣言

翌年の1776年にアメリカは独立を宣言しましたが、イギリスがこれを認めるのは7年後のことです。長く続く戦いによりアメリカでの「茶」の消費量は激減、さらにその後の1812~1814年に起きた英米戦争によって両国の貿易は完全にマヒし、アメリカ人はこうして「茶」を飲まない国になります。

カナダにイギリスの喫茶文化が残る理由

一方で、イギリス本国の統治下に留まることを選んだのがカナダでした。当時のアメリカでも、イギリス本国に対して忠誠を誓う人々は、カナダへ亡命します。こうして、カナダにはいまでもイギリスの喫茶文化が残ることとなるのです。

 

清との貿易摩擦

イギリス本国でも深刻な問題となった茶税

結果的にアメリカを独立へと導くこととなった「茶」に対する関税は、イギリス本国でも深刻な問題となっていました。1660年以降、贅沢品として課税対象となっていた「茶」は、独立戦争後にさらに税率が上昇し、1784年には119%にまで膨れ上がりました。

その結果人々は、正規ルートのイギリス東インド会社の「茶」ではなく、オランダなどからの密輸の「茶」を買うようになります。これにより正規の「茶」を扱う茶商は利益が上がらず、政府も徴税ができないという状況に陥ります。

このままでは、「ボストン茶会事件」がイギリスでも起こるのではないかという危惧が生じたのは、当然のことでした。

リチャード・トワイニングと減税法

当時、トワイニング社は、リチャード・トワイニングが4代目の当主となっていました。彼は、30代の若い経営者でありながら、茶業者団体の会長も務めていた逸材でした。「茶」を巡るこうした状況のなかで、彼は首相ウィリアム・ピットに対し「茶税を撤廃することにより生じる歳入の損失を、茶業者が以後4年かけて責任をもって国庫に納付する」という提案を行います。

数度の話し合いがもたれ、1784年には「減税法」が通過、119%の関税は、1/10の12.5%にまで引き下げられました。

こうして、無事に「茶」は正規ルートのものが市中に流通するようになり、トワイニング社をはじめとする茶商たちの販売量も増加していきました。安くて本物の「茶」が手に入るようになったことで、「茶」の密輸も減少していきます。

ところが、これが思わぬ事態を引き起こします。

対中貿易赤字の拡大とアヘン

「茶」が劇的に安くなった結果、イギリスの「茶」の消費量が爆発的に増加し、対中貿易赤字がさらに拡大したのです。

イギリスは清に対して、自由貿易の権利と貿易港の拡大を乾隆帝に書面で求めましたが拒否されます。それならばと直接交渉を試みましたが、これも失敗に終わります。あきらめきれずに、その後も3度にわたって交渉を試みますが相手にされませんでした。中国側は「自分たちに必要なものは全て自国でまかなえており、ことさらイギリスから輸入しなければならないようなものはない」という主張だったからです。

このように交渉が難航している間にも、膨大な「茶」の決済のために「銀」が流出していきます。イギリスは、何とかこれに対処すべく「銀」に代わるものを探しました。

そこで目を向けたのが、植民地インドの「アヘン」です。

oriental-1089762_640