Lesson10-8 二つの戦争を越えて

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戦争と紅茶

紅茶も配給へ

1914年に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパが激戦の地となりました。戦時中は、ティーダンスなどの自粛が呼び掛けられましたが、紅茶は制限食品には入っていませんでした。

しかし、1917年にドイツ艦隊が英国艦隊の海上輸送を絶つ目的で商船への攻撃を開始すると、紅茶の供給が滞るのではないかという噂が流れ、人々が買いだめに走り、業者はこれを好機とみて値を吊り上げるというパニックに陥りました。この事態を重く見た政府は、紅茶を配給食品のリストに加えます。

国際茶協定と国政茶業委員会の設立

戦争で荒廃したヨーロッパに、1930年代の経済恐慌が襲います。世界中で起きた農産物の価格暴落に対して、生産国は大打撃を被りました。

こうした事態への対処を目的として、インド、セイロン、インドネシアの代表による「国際茶協定」がロンドンで交わされ、これを管理するためにロンドンには「国際茶業委員会」が設立されました。ここには、3か国に加え、茶の生産が始まっていたケニア、ウガンダ、タンザニア、マラウイといったアフリカの国々も参加します。

CTC製法の開発

アフリカの国々では、「ティーバッグ」に適した茶葉の生産が期待され、CTC機を用いた製法が開発されました。CTC製法の紅茶は、ミルクティによく合ったため、イギリス人にも歓迎されていたのです。

こうして世界的に統制が図られた結果、第二次世界大戦が始まるまでの間に紅茶の価格は緩やかに回復していきました。

 

第二次世界大戦と紅茶

「たとえ弾丸が切れても、紅茶をきらしてはならない」

1939年、ドイツのポーランド侵攻によって第二次世界大戦が勃発。第一次世界大戦の時のパニックで得た教訓から、茶は再度配給制となりました。政府は集めた紅茶をトワイニングやリプトンなどの会社に分配し、それぞれの工場でブレンド、個包装をさせました。

首相チャーチルは、「たとえ戦地で弾丸が切れても、紅茶は絶対に切らしてはならない」と述べ、特に激戦を強いられていた海軍には、制限なしで紅茶を支給させたといいます。チャーチルは、戦争という緊迫した非常事態において、茶は体を温めて束の間の安らぎを与えるものであることを強く認識していたのです。

戦地にも届けられる紅茶

ロンドンはたびたびドイツの空襲を受けましたが、爆撃で大破した街路を紅茶の配給車は止まることなく走り続け、戦地にも確実に紅茶が届けられました。

第一線の戦場には、イギリス軍とYMCA(キリスト教青年会)の協力によって紅茶の運搬が行われましたが、フランスへ派遣されたYMCAの24台の車のうち戦後に帰国できたのはわずか1台だったといわれています。

NEstudio/Shutterstock.com

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小型茶葉の生産増加へ

遠くイギリスから離れた激戦地ビルマにも、イギリス空軍が定期的に紅茶を届けました。ビルマに近いアッサムはもちろんのことインドやセイロンの生産地では、茶園の自警団が組織され、労働者不足などの困難にも耐えて紅茶の生産が続けられました。

特に輸送上の利便性を図るために、「大型茶葉(フルリーフ)」タイプのものではなく、「小型茶葉(ブロークンズ)」にするように命令が出されたため、小型茶葉の生産に拍車がかかります。

生産性を上げるためのティーブレイク

さらに、大戦中の国内工業生産の効率を高めるために、労働者のティーブレイクと生産性との研究が進み、「工場における1日2回のティーブレイクは、生産性をあげる」ことが証明されると、社則でこれを定める会社が増加しました。

このようにして、イギリスは戦時中でも徹底的に紅茶を管理し、国民に供給しつづけました。イギリス国民にとって、もはや紅茶は単なる嗜好品以上のものになっていたことを伺わせるエピソードです。