あこがれの白い器 ~陶磁器の歴史~
洋の東西を問わず、喫茶の習慣が始まったころはお茶は大変高価で貴重なものでした。ですから「喫茶のための道具」は、お茶を手に入れることができるだけの「権力」や「富」を持っていることの証でもあり、またそれにふさわしいものでなければなりませんでした。
つまり、茶を求めるのと同じくらい「喫茶の道具」にも関心が寄せられたことは必然であったといえるでしょう。「お茶」は、同時に「器の文化」も育んできたのです。
紅茶の文化もその例にもれず、美しい器に多くの関心が寄せられてきました。ここでは、紅茶が育んできた器の歴史と文化について、イギリスのBone Chinaを中心に紐解いてみましょう。
ティーカップの移り変わり
緑茶用のティーボウル
お茶がヨーロッパに本格的にもたらされるようになるのは17世紀の半ば頃からのことです。
これと同時にヨーロッパの人々に知られる事となった「茶器」も、お茶とともに中国や日本から輸入されたものだったので、当時は緑茶用のものでした。したがって、そのころの茶碗(ティーボウル)は今のティーカップよりもずっと小さめで、当然のことながらソーサーもハンドルもついてはいませんでした。
貴重な茶を、少しずつ飲んでいたことが伺えます。
ソーサーとハンドルの現在の形へ
やがてソーサーが付くようになりますが、いつ頃、なぜソーサーが付くようになったのかは、実はよくわかっていません。しかし当時は、ティーボウルのお茶をソーサーに注ぎすすりながら飲むという作法が流行していたため、ソーサーはスープの皿のように深いものでした。
17世紀も末期になると、ティーボウルも次第に大きくなり、現在のようなハンドルがつくようになります。最初は、片手と両手との2種類のハンドルがありましたが、やがて片手に統一されていくようになります。
憧れの「東洋の青と白」 ブルー&ホワイト
ヨーロッパの人々を魅了した白い磁器
17世紀に入ると、ヨーロッパでは中国や日本からの茶の輸入が本格化します。その茶とともに、たくさんの茶碗も輸入されてきました。
当時のヨーロッパにはまだ磁器を作る技術がなかったので、東洋の薄くて丈夫でありながら、透けるような白さと繊細な美しさをもつ茶碗は、多くの王侯や貴族を魅了します。時の権力者たちの間には、喫茶の習慣とともにこうした磁器を収集することが流行するようになっていきました。
バラストとして船に積まれた茶器
もともとは、輸入品というよりも船のバラスト(※1)として扱われることが多く、茶碗は正規の貿易品ではありませんでした。しかしその売り上げは船長たちの収入となったので、船長たちはこぞってこれを運び利益を得ようとしました。
こうして、ヨーロッパにたくさんの磁器がもたらされるようになります。
シノワズリーとフリードリヒⅠ世
各国の王侯貴族たちは、白地に青い染付の施された磁器を収集し、部屋いっぱいに飾りつけて富と権力とを誇示しました。こうした東洋趣味を「中国趣味(シノワズリー)」といいます。中には、「磁器の間」まで作ってしまった王侯らもいます。
その中でもとくに有名なのは、プロイセン(ドイツ)王のフリードリヒⅠ世です。彼が妻のために作ったシャルロッテンブルク宮殿の「磁器の間」は、目もくらむような華やかさと、壁を覆う膨大な磁器の数を誇っています。
シノワズリーとキャサリン・オブ・ブラガンザ
イギリスにおいて、こうした流行の先駆けとなったのが、キャサリン・オブ・ブラガンザです。
ポルトガルから、1660年の王政復古により即位したチャールズⅡ世へ嫁いできた彼女は、私邸のサマセットハウスや、公邸ウィンザー城に、中国や日本からもたらされた磁器を飾ります。東洋のエキゾチックな雰囲気があふれる部屋で、彼女は茶会を催し多くの人々を魅了しました。
やがて高価な茶、繊細な白に深い藍色の施された器に囲まれて、イギリスの喫茶文化が花開いていきます。
磁器コレクターだったメアリⅡ世
また、1689年の名誉革命により即位したメアリⅡ世は、量より質を重視したコレクターとして有名です。彼女のコレクションは、残念ながら彼女の死後に散逸してしまいましたが、かろうじて残されたものが現在でもハンプトンコート宮殿に展示されています。
このように女王たちのコレクションに触発されて、イギリスの貴族たちの間でも「磁器の間」を作ってそのコレクションを互いに自慢し合うということが、社交として流行していきました。
※1 バラスト:船体の安定を保つために、船底などに積む重量物のこと。水や砂、油などがある。

