Lesson11-2 ボーン・チャイナBone Chinaの誕生まで

ヨーロッパで空前のブームが沸き起こった東洋の磁器ですが、やがて18世紀に入るとヨーロッパでも製作が始まります。

東洋の磁器に近づくために

オランダのデルフト焼

東洋の青と白」がもてはやされていた当時、なんとかしてこの東洋の技術に追いつこうと試行錯誤を重ねていたのがオランダの「デルフト(Delft)焼」です。

現在でも、とてもきれいな青い色で描かれているお皿や壺などが人気ですが、デルフト焼きは残念ながら「陶器」でした。磁器は陶器よりも材質がよく、2度目に焼くときの温度が高いので、出来上がりが硬くなります。また、陶器のように多孔性ではないので、薄くても耐久性があります。さらに、陶器にない美しい透明感のある光沢が生まれるのが最大の魅力です。

Operation Shooting/Shutterstock.com

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マヨリカ焼きの技法

「デルフト焼」で用いられた技法は、メッツァ・マヨリカというイタリアの「マヨリカ(Maiolicaマジョリカとも)焼」で発達した技法でした。

この技法は、素焼きに白の陶土の溶液をかけて乾燥させ、針金で白地をひっかいて絵を描き、それに緑や褐色、コバルトの顔料を加えて鉛の釉薬をかけて焼くことにより、ガラス質の透明感を出します。

デルフト焼は、この技法でなんとか東洋の磁器に近づこうと努力をしました。このような「陶器」から「磁器」に接近を試みた職人の努力は、のちに磁器を買えない庶民への普及品として人気を博すことになります。

 

磁器の制作技術の発見とドイツ・マイセン窯

そうした陶業者の工夫の一方で、何とか「磁器」の製作技術を発見しようと努力を重ね、それに成功したのがドイツの陶業者、ヨハン・ベッドガーです。

1710年にザクセン王は、マイセンの町を見下ろすアルブレヒド城に工場を作り、彼を工場長に任命しました。やがて、磁器のティーポット、ティーセットを売り出すまでに至ります。これが現在でも世界的に人気のある「マイセン(MEISSEN)窯」の始まりです。

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最初は門外不出の技術として職人らは囚人のように監視されていましたが、結局この技術はヨーロッパに広まり、王侯貴族らが自分の磁器工房を持つことが流行するようになります。

その後、ドイツ風の磁器は、オランダやデンマーク、スウェーデンなどに普及し、フランスでは伊万里のティーセットを模倣する磁器が開発され、普及していきました。

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イギリスの磁器の発展とボーン・チャイナ

ところが、イギリスでは磁器の導入が遅れ、その技法が伝わったのは18世紀の半ばごろのことでした。磁器を作る際には、カオリンという鉱石が用いられます。

イギリスではこの鉱石の採掘ができず、他のヨーロッパ諸国のように王侯貴族の援助を得ることが難しかったため、資金調達が難しい状況にありました。

大人気となったチェルシー窯

唯一、カンバーランド公爵という支援を得て絶大な人気を誇ったのが「チェルシー(Chelsea)窯」です。「チェルシー窯」は、王室などの注文も受けた高級品で、有田焼の写しを得意としました(※2)。

 

ボウ窯とボーン・チャイナの始まり

この「チェルシー窯」のライバルとなったのが1747年に創業した「ボウ(Bow)窯」です。

「ボウ窯」では、素地の中に動物の骨粉を混ぜて焼き上げることにより、透明度の高い美しい輝きを持つ地肌をもつ磁器を作ることに成功しました。これが、現在「ボーン・チャイナBone China」といわれる技術の始まりです。この技術は、イギリスの陶磁器業界に大きな貢献を果たすことになります。

「ボウ窯」の製品は、マイセン窯やチェルシー窯に比べて比較的安価であったことから、中産階級の家庭で普及しました。チェルシー窯と同じように、「ボウ窯」でも柿右衛門スタイルが多く用いられました。

 

しかし、残念ながらチェルシー窯もボウ窯も、1770年代後半に経営困難に陥り、ダービー窯(1750年創業)に買収されてしまいます。

 

ボーン・チャイナ技法の発展

1757年、清の乾隆帝(けんりゅうてい)は、海外との貿易を広東に限るという政策を打ち出します。この政策により当時イギリスに輸入される中国磁器が大幅に減少してきていました。このことが、イギリスの「ボーン・チャイナ」技法の改良に拍車をかけます。なかでも抜きんでていたのが、スポード(Spode 1770年創業)窯です。

スポード窯

スポード窯において、父の後を継いでボーン・チャイナの開発を進めていたスポードⅡ世が、1799年、ついにほぼ完璧な「白磁」に近い「ファイン・ボーン・チャイナ」の作品を生み出す技術を確立させました。

このころ陶磁器に強い関心を抱いていたイギリス皇太子は、自らスポード窯を視察、一目で魅了されてしまいます。のちにジョージⅣ世として即位した彼は、即位するとすぐにスポード窯に王室御用達を与えたほどでした。

こうして、いよいよイギリスに独自の「磁器文化」が発展していく時代が到来するのです。

littleny/Shutterstock.com

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※2 実際にチェルシー窯が見本としたのは、有田焼を模倣したマイセン窯の作品である。